明治12年(1879年) 明治政府は、わが国近代化の一環として「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」を創設し、 伊沢修二(当時28歳)をその長に任じました。
翌明治13年(1880年)ルーサー・ホワイティング・メイソン(61歳)が米国より招聘され、 同年3月東京本郷の文部省用地内一六番館を改築した音楽取調掛官署で活動が開始されました。
メイソンは文部省お雇い外国人として伊沢修二音楽取調掛長と一心同体となって、実に献身的に活動し、大きな成果を上げました。
     彼は、小学唱歌教科書の編纂、諸学校での唱歌・器楽の指導、スタッフへの和声楽の講義、作曲の奨励はもとより、ピアノの調律、オルガン製作・組み立て指導まで寸暇を惜しんで活躍したそうです。

   明治15年(1882年)7月13日、7ヶ月の賜暇帰国を願い出ていたメイソンは、この日離日し、再来日の希望もあったが、ついに再び日本の土を踏むことはありませんでした。
  しかし、同氏が滞日した2年4ヶ月の間に、わが国の音楽(洋楽)教育の基礎が築かれたと言っても過言ではありません。
  幸田延、小山作之助、滝廉太郎等々、次々に優れた音楽家、教育者が誕生し、これが今日の日本の音楽界の隆盛の源流であり、今日の東京芸術大学音楽学部の前身となっています。

 

 


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